【☆学長短信☆】No.42「君子の三楽」
以前、「教育原理」の授業を担当していた頃、格言を引きながら説明をしていたことがあります。そうした言葉の一つが「君子に三楽有り」です。いわゆる「四書」の一つである『孟子』の中に出てきます。ちなみに、中国古代の儒教思想を「孔孟の教え」などと一括りにしますから、孔子と孟子が同時代人かと思われたりすることも無きにしも非ずでしょう。しかし、孔子に『論語』があり、その学問は『大学』を遺した曾氏に伝わり、曾氏の学統は孔子の孫で『中庸』を表した子思に伝わり、その子思の門人の教えを受けたのが孟軻、すなわち孟子ですから、だいぶん時代が違います。もちろん、中国の四千年、あるいは五千年と言われる歴史から見れば、ほんの瞬きの時間くらいの時差と見ることも可能でしょうが。
孟子にまつわる話として、良く知られているのは「孟母三遷の教え」。孟子の家族が墓場の近くに住んでいたとき、葬式ごっこばかりをして遊ぶ孟子を見た母親は市場の近くに転居しましたが、今度は息子が商売の駆け引きの真似事ばかり。そこでさらに学校の近くに引っ越したところ、礼儀作法の真似をするようになったのを見て、そこに落ち着いたという、子育てにおける環境の重要さを説いた話。また、学業半ばで諦めかけて帰宅した孟子に対し、母は機織り機で織りかけていた布を断ち切って、中途で放棄する愚を諭した「断機の戒め」は、退学しようかと悩んでいる学生を前にしたときには思い出したい話です。
さて、孟子が考えた君子の三つの楽しみに話を戻すと、のっけに「天下に王たるは与(あずか)り存せず」と記されています。天下国家の指導者たらんとし、一旦その地位に就いたなら長く君臨するために画策するどこかの国の独裁的指導者や、何とか少しでも在任期間を引き延ばそうとする政治家などを見るにつけ、哀れにすらなります。そんなことは君子の楽しみとは全く関係ないのです。
三楽の第一は、「父母倶(とも)に存し、兄弟故(こ)なきこと」。つまり父母が健在で、兄弟姉妹、おそらく子どもなども含めて家族に事故がないことでしょう。私など、君子からは元来ほど遠い存在ですが、すでに父母はなく、第一の楽しみの半分以上は味わえなくなってしまいました。
第二の楽しみは、「仰いで天に愧(は)じず、俯して人に怍(は)じざる」、つまり自らの行いを振り返って、心にやましいところがなく、天地神明に対しても他人様に対しても恥じることが皆目ないと言い切れる状態であること。大きな過ちは犯さなかったにせよ、小さな恥を日々重ねながら生きて来た身には、とてもそんな境地にはなれそうにない、遠い目標です。
そして、最後に第三の楽しみとして「天下の英才を得て之を教育するは、三の楽しみなり」と締め括られます。第一、第二の楽しみはとても完全には味わえそうにありませんが、教師という職業に就いている御蔭で、この第三の楽しみだけはアクセス可能なように思います。自分の周りに集まる学生が天下の英才ばかりというわけには行かないでしょう。しかし、縁あって出会った誰であれ、子弟関係を結んだ人たちに向かって自分が培ってきた知識や技術を伝え、さらには自らの生き方を通して、何らかの良き影響を与え、その成長を助けることができるのは教職に備わった本質的な喜びであり、楽しみであるでしょう。
われわれ教育に携わる者は、この三楽の教えを常に胸に刻んで実践を続けることで、やがて学識・人格ともに優れ、徳行を重ねる君子に近づけるのかも知れないと考えているのです。