【☆学長短信☆】No.30「学ぶべきこと」

 明治30年の創刊以来、関東大震災で9ヵ月と戦中・戦後の7年間は一時中断を余儀なくされたものの、今日まで120年余りにわたり営々として刊行され続けている国内最古の企業PR誌があります。創刊から2003年まで月刊、2004年から季刊となり、2009年から2011年までは年2回の発行、2012年から季刊に戻ったようですが、その息の長さに驚くばかりです。もともと丸善株式会社の発行だったものが、企業再編などを経て、この夏から丸善雄松堂株式会社による刊行にリニューアルとのこと。 

  創刊時には『學の燈(まなびのともしび)』と命名され、「みずから灯火となってまなびの道を照らす」との意味が込められたそうですが、1902年から『學灯』、さらに1903年に『學鐙』に名称変更され、「GAKUTO」「がくとう」「ガクトウ」が混在した後、1942年から「學鐙」に統一。ちなみに、読みは同じ「とう」でも火偏の燈と金偏の鐙は意味が大違い。後者は一般に明かりの意味でなく、この文字「あぶみ」は鞍から両側に吊り下がっていて、乗馬の際に足を掛ける動作を「鐙を履く」などと表現する馬具。てっきり、馬に乗るのに鐙の力を借りて、ヨイショと身体を持ち上げるように、学びの手助けとなる意味かと、勝手にずっと思い込んでいました。しかし、このたび『辞海』という大部の辞書を引いてみて、この文字が古代には灯の意味でも使われたことを知りました。すなわち、漢代や晋代に流行した青銅製の照明器具で、灯油や蝋燭で明かりをとるのに用いた物を指し、「錠」とも呼ばれたとか。 

  さて、前置きはさておき、さすがにその時代に世間で一目おかれる文筆家、学者、文化人の手になるエッセイ集です。新たな見方に気づかされ、教えられることが少なくありません。関心のある特集テーマを見つけた時など、折に触れて広げますが、この冊子のリニューアル後最初の令和5年夏号では「いま私たちが学ぶべきこと」という特集が組まれました。養老孟司氏、内田樹氏など私の好きな書き手の名前を見つけては、読まずにはおれません。 

  「学ぶことを取り立てて題材にするのは、学ぶことを人生の当然と思っていない証拠である。人は日々学ぶ存在で、『学ぶ』は『生きる』中に含まれている」と、このテーマ設定に対するシニカルな見方から書き出す養老先生の考えにまず惹き付けられました。曰く、「生きることと学ぶことが乖離してしまうのは、学校教育に原因があると思う」「ヒトは必死で生きているときに、いちばんよく学ぶ。・・(中略)・・もうひとつの学びは反復練習である。あらゆる技能はそれによってのみ、身につく」「身につけてもしょうがない能力は、AIに可能な能力である。AIが代わりにやってくれるからである」と。 

  同じく、内田先生も「問いの立て方が『ちょっと違う』ような気がしたので、それについて書くことにする」と、テーマ設定への「ちゃぶ台返し」で始まっています。「『学ぶ』というのは一言で言えば『別人になること』である」として、中国三国時代の呉の呂蒙という将軍の逸話に触れてあります。勇猛ながら学問がないのを主君に残念がられたことに発奮した同将軍が学問に励み、暫く後にはまったく別人のように変わった話です。ところが、「知的成長ということを現代人はたぶん『知識の量的増大』というふうに考えている」「でも、それは『学び』とは違う。学びというのは『入れ物』自体が変わることだからである」。いつの頃からか、教育の目的が「学び」から知的に欠けているものを「補充」することとして捉えられるようになり、「基幹産業が農業から工業に遷移するにつれて、教育を語る言葉もまた工学的なものに変わった」と述べられています。 

  この変化の最たるものが90年代にシラバスが大学に導入されたことであり、シラバスどおりでないことは「工程管理上のミス」でペナルティの対象になるとされたことだとも。シラバスは教師と学生の間の教育商品の取引についての「契約書」のようなものだと言われた時に「激しい怒りを覚えた」内田先生は、神戸女学院教授時代の授業評価アンケートでは、「『シラバス通りの授業をしている』という質問項目の得点がつねに最低だった。でも、あとはおおむね最高点であった」とのこと。「保護者や学生は『クライアント』であり、大学は『店舗』であり、『市場のニーズに応えて』『消費者に選好される教育プログラムを展開すること』が学校の仕事だと真顔で言う人たちが学校内外を埋め尽くすようになった。そのようにして日本の学校教育が壊滅的なことになったのはご案内の通りである」と手厳しい。最後に「この世に存在することさえ知らなかった開放性・豊饒性のうちに『学び』の神髄があると私は確信している。けれども、日本の教育者で私のこの考えに同意してくれる人は非常に少ないと思う。教育政策を提言する政治家や政策を起案する官僚の中にはたぶん一人もいないだろう。それでも、私はこれからも同じことを言い続ける」と結ばれています。 

  人格や生き方さえも変わっていくような過程こそが「学び」という考えには、さすがと大きく頷き、シンパシーを感じました。自らの最近の思考や行動を省みさせるのに十分な警句です。しかしながら、授業実践の基本としてシラバスの考え方を採り入れ、その実行の有無を授業評価アンケートで問うことも認可している身としては、ハタと立ち止まりました。確かに、理想的な教師の在り方や真に身に付く教授=学習過程は、内田説のようであるべきなのでしょう。しかし、その一方で、話の取っ掛かりがたとえ学生を傾聴モードに誘い込むような身近な出来事や思いつきの話題であっても、それに結び付けて、周到な筋書きがなくとも、自らの血肉のような該博な知識や経験を縦横に活かしつつ次第に深遠な理へと学生を導ける、あるいは学生自身に気づかせることのできる非凡な教師がどれほどいるでしょう。バラエティ番組のエンターテイメントよろしく、面白可笑しく時間が過ぎていくことは許されるはずもありません。また、分野によっては、身に付けるべき内容や体系が相当かっちりと決まっていて、一つずつ順番に講じる必要があるケースもあるでしょう。結局、シラバスに関する内田説に、私は半分だけ納得でした。さあ、皆さんはどうお考えでしょう。 

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