【☆学長短信☆】No.22 「除日に講起す」
令和5年が明けました。新年おめでとうございます。皆様は大晦日から元旦にかけてどのように過ごされたでしょう。私は大晦日になると、決まって思い出す言葉があります。林羅山の「除日に講起す」です。小学校あるいは中学校の国語の教科書だったか、道徳の副読本だったかも定かではありませんが、確かに学校で読んだことだけは覚えており、子どもながらに妙に感動し何十年も忘れることがありません。よい機会と、羅山のことを少し考え直して見ました。
林羅山は言わずと知れた江戸時代初期の儒学者にして、幕府お抱えで朱子学をきわめた儒官を代表する林家の始祖。未だ徳川の治世には間がある天正11年(1583)に京都の四条新町で生まれています。原念斎らが編んだ江戸初期から中期までの儒学者を対象にした漢文による伝記集『先哲叢談』(源了圓・前田勉訳注、東洋文庫574、平凡社、1994年刊)に拠れば、羅山は父の長兄の養子として育ちますが、早くから非凡な学才を示したようです。例えば、8歳の頃、父の許を訪れた甲州の医家の永田徳本と思われる人が読む『太平記』を側で聞いていた羅山は、一度聴いただけで内容を記憶し暗誦してみせたと言います。またある時は、『論語』の注釈書である『論語集註』の1頁分が欠落しているのが見つかった折、筆を執って何も見ないでその落丁部分の内容を書き上げ、しかも一字の誤記もなかったという逸話が残っており、「其の強識はおおむね此の類なり」と記されています。
文禄4年(1595)、13歳の時に臨済宗の建仁寺で著名な何人かの禅僧について学び、その優れた才能ゆえ出家して仏門に入ることを強く勧められましたが、これを断って15歳で寺を出て家に戻ります。その後も読書に没頭し、経学のほか諸子百家や史書・地誌・兵学・本草など多方面の漢籍を読破したとされます。18歳で初めて『論語』に関する朱子による新たな注釈を読み、21歳になると、その講釈を京都の市中で行ったようです。今風に言えば社会教育の先取り、ないし文化啓蒙活動でしょうか。当時、古典に関する知識は秘伝として貴族や僧侶の間で伝授されて来ており、勅許なしに書の内容を講じることが禁じられていたのに、自説を一般に広めようとするのは罪に当たると明経博士の清原秀賢によって譴責されるといったことも起こりました。しかし、やがて羅山の高い学識は、22、3歳から師事していた藤原惺窩の推挙もあって徳川家康に伝わるところとなります。二条城で家康に拝謁し、ブレーンの一人として仕えます。君命により、幼少の折には忌み嫌った僧となって道春と名乗ったものの、後には反仏教の立場に立つなど、その言行不一致を学者の間で批判されたりもしています。羅山は家康の後も秀忠・家光・家綱まで4代の将軍に歴仕して学問を講じる侍講を務めます。この間、家康の文治主義、学問奨励策の下で実施された古書漢籍の調査蒐集を通じて、『大蔵一覧集』『群書治要』といった中国では既に失われていた書物の銅活字による復刻出版に携わったほか、鞆の浦とも縁のある朝鮮通信使の応接や、外交文書の起草、武家諸法度の起草、寺社関係の裁判事務など、学問や儀礼に関わる公務に従事し、幕命を受けて『寛永諸家系図伝』『本朝編年録』なども編纂しています。
寛永7年(1630)には将軍家光から上野忍ヶ岡に土地を与えられ、私塾・文庫と孔子廟を建て、孔子をまつる釈奠(せきてん)を執り行っています。これらの施設は後に神田の昌平坂に移築されて幕府直轄の昌平黌(あるいは昌平坂学問所)および聖堂の基礎となりますが、昌平黌は旗本をはじめとする武士だけでなく一部で町人にも受講を許し、前近代における中央の学問の府として機能したことが知られています。教育史的には重要なポイントです。一方、非の打ち所がないほど該博な知識に支えられた大学者に見える羅山ですが、イエズス会の日本人修道士ハビアンが唱える地動説と地球球体説は断固として受け入れなかったことに代表される頑迷固陋さも見られ、そうした彼が幕府の学問の中枢を占めたことが、わが国の近代主義、科学主義的思索の発展を妨げたと、名著『風土』の著者の和辻は批判しています(和辻哲郎「埋もれた日本―キリシタン渡来文化前後における日本の思想的情況―」)。
大雑把に振り返って見ただけでも、毀誉褒貶(きよほうへん)相半ばする羅山ですが、本旨に立ち戻りましょう。同じ藤原惺窩の門弟であり、すでに医家として名を成していた播磨の菅得菴が、ある年の暮れに羅山に向かって、「私は未だ『通鑑綱目』(司馬光の『資治通鑑』に関する朱子らの注釈書)を読んだことがないので、先生、明春を以て私の為に教えて頂けませんか」と言うと、羅山は「あなたが心から望んでいるなら、どうして来年まで待つのですか」と応じて、「除日を以て講を起こした」というくだりがあります。研究成果の公表に関するプライオリティないし早い者勝ちのルールが支配する理系分野ではとくに、誇張でなく一分一秒でも他者に遅れをとるまいと熾烈な競争があるやに聞きます。それほどでないにしても、文系また然り。「明日がある」、やるべき研究や仕事を「先に延ばそう」では学問の世界では勝ち残れません。子どもの頃に学んだ一文を殊更に本短信で取り上げたのは、羅山の如き歴史に残る大人物と比べて見ても詮ないことですが、研究面での努力に欠ける昨今の我が身への自戒の念を込めての駄弁で、新年初の短信に替えることにした次第です。