【☆学長短信☆】No.37「二つの歌詞にまつわる話」
別れの季節の3月が去り、出会いの季節の4月になりました。この時期に、私には決まって頭に浮かぶ二つの歌詞があります。
一つは卒業式で歌われる「仰げば尊し」。1884年(明治17年)に発表され、ご存知のとおり、卒業生が教師に感謝し学校生活を振り返る内容の日本の唱歌です。卒業式でのもっと定番曲である「蛍の光」はスコットランド民謡が基になっていることがよく知られていたのに対して、「仰げば尊し」は長らく作者不詳の歌とされて来ました。しかし、その後の研究で、1871年にアメリカで出版された楽譜に酷似の楽曲が載っており、それを持ち込んだのが当時の文部省音楽取調掛の伊沢修二であり、歌詞はわが国初の国語辞典『言海』を編んだ大槻文彦をはじめ里見義や加部厳夫の合議によって作られたものではないかと言われています。その誕生はどうあれ、明治から昭和、及び平成の初頭にかけては、学校の卒業式でしばしば歌われた曲であることに変わりありません。本学では確か昨年まで流れていましたが、今年はなぜか聞くことができませんでした。しかし、兄弟校の福山平成大学の卒業式では今年も式の最後に美しい合唱が流れ、大いに癒やされました。
この歌の中でも私がとくに好きなのは二番の歌詞です。「身を立て、名をあげ、やよ励めよ」。努力とか頑張りなどと口にすると、すぐに「ダサっ」という反応が返ってくるかも知れない時代です。「さあ」という呼びかけの古語である「やよ」など、いかにも「古くさー」と言われそうです。また、この立身出世を呼びかけた部分が「民主主義」的ではないという見方もあったことから、2番を省略して1番の次に3番を歌う学校もあったとか。しかし、何か偉業を成し遂げた人で、一見すると天賦の才能によるところが大きいように見える場合も、大抵は人知れず努力を重ねて初めてそれが可能であったということが多いようです。さらに、中国思想史の加地伸行教授によれば、歌詞のこの部分はもともと中国古典『孝経』のうち開宗明義章にある「身を立つるには道を行い、名を後世に揚げ、以て父母を顕すは、孝の終なり」に基づいて作られたものであり、本来は立身出世ではなく、親孝行を実践して心身の修養を目指す儒教的な道徳について表現したものだとされます。
去る3月20日に卒業式を終えた皆さんは、如何なる思いで本学を巣立って行ったのかと考えるのです。「仰げば尊し」と思われたいなどは、教師として厚かましい願いかもしれません。しかしながら、果たして4年なり6年なりの授業料に見合う、しっかりした指導を行えたか、満足してもらえたかと気になるところです。例年の卒業生アンケート調査では、ご祝儀気分もあってか、総じて十分に高い評価を得ていますが、それに気を良くすることなく、むしろ少数であっても、マイナスの評価や厳しい自由記述や指摘に目を向け、これ以降の実践改善につなげていきたいものです。
もう一つの歌詞にまつわる話は校歌です。私はこれまで学んで来た学校の校歌のうち、まともに覚えているのは小学校の校歌だけでした。6年間も柔らか頭の時に歌い続けたのですから不思議ではないでしょう。「緑いや増す久松の、高き操の諭し受け、雄々しく立たん我が友よ・・・」と、今でも2番までは終わりまで確実に口を衝いて出てきます。「久松」は故郷の市中のどこからでも見える山のことで、すぐに理解できました。しかし、書き言葉でなく音として頭に入れた「たかきみさお」という部分は、てっきり「高木操」さんという偉人の教えを受けたと言っているのだろうなと、ずっと後年まで思い込んでいました。ただ、3番以降は怪しくなります。他方、中学、高校は1番の歌詞もおぼろげで、大学となると尚更です。通った大学にそもそも校歌のようなものがあったのかというくらいです。大学に入って真っ先に覚え、いまだに覚えているのは、「立て、飢えたる者よ、今ぞ日は近し」と始まる「インターナショナル」でした。あの騒然とした1960年代末の学園闘争の時代を反映しています。後に勤務した大学に関しても同様に、まったく校歌が思い浮かばないのです。
しかし、同じ大学と言っても福大の校歌は別です。勤務して暫くすると、3番までほぼ間違いなく歌うことができるようになりました。私立大学である本学の校歌には建学の精神が流れていて、それが私の波長に合い、心地よく聞こえたのかも知れません。「光さす備南の山脈(やまなみ)・・・熱き希い(ねがい)に集いつつ、不朽の真理(まこと)究めてゆかん」。創設者が万感の思いを込めて作詞されたのでしょう。作れと言われても、できそうもなく、その卓越した才能に感服するばかりです。私は実に良く出来た詩だと感じています。2番、3番しかりです。ただ、一箇所だけ、論理的にというか、整合性の点で疑問を感じながら歌うところがあります。3番の「友垣意気に励みつつ」です。友垣は今風なら友達でしょうが、それは良しとして、続く「意気に励む」というのが、私には何度歌ってもしっくり来ないのです。「意気に」と来れば「感じつつ」と結ぶのが良いように思うのです。おそらく何か別の思いがあったのかも知れませんが、今となっては確かめようもありません。さあ、もうすぐ行われる入学式でまた校歌を歌うことになります。この歌が本学に集うすべての人達にとって、なぜか自然に口ずさみたくなる歌になればと思うのです。