【☆学長短信☆】No.35「啐啄同時」
本棚を整理していたら、厚紙の表紙を大学ノート風に仕立てた二つ折りの寄せ書きらしきものが出てきました。前の職場の所属講座で、平成18年入学の29人のクラスの担任に入学時から割り当てられていた私に、当該クラスの学生が卒業に際して思い出の集合写真などを貼って作り、律儀にも贈ってくれたものでした。彼らの在学中、福大で行われているようなクラス担任としてのきめ細かな配慮や指導をした記憶が、私にはほとんどないにもかかわらずです。その表紙に小さく「啐啄同時」(そったくどうじ)と書かれていました。
この言葉は私が好きなものの一つで、授業科目として担当していた教育原理だったか何だったか、とにかく教育学の基礎・基本について講じる授業の中で折に触れて取り上げていた覚えがあります。きっとそれを聞いたことのある上記学年の誰かが頭に残っていて、「あの人ならこの言葉」とばかり、卒業記念にチョコッと書き残してくれたのでしょう。「啐」とは、雛が今まさに卵から生まれ出ようと、卵の殻を小さな嘴で内側からコツコツと破ろうとすることです。一方、「啄」は、その音を聞き分けた親鳥が外側から嘴で殻をつついて割り、雛の誕生を助けてやる様子だと言います。両者の行動が「同時」というのは、生まれ出ようとする側と、それを手助けしようとする側のタイミングがピシャリと合致することを意味します。これにより雛はスムーズに世に生まれ出ることができるというわけです。
その語源を辿れば、もともと禅宗において、悟りを開こうとする修行者と、それを導く師の関係を表す言葉として、とくに「啄」を行う立場の導師が好機をとらえて悟りのきっかけとなる一助を与えることを表現したもの。広く教育の場面において、教え子に手を差し伸べる絶妙の時機や内容を言い得ていると思います。中国、宋代の禅宗の代表的典籍である『碧巌録(へきがんろく)』の第十六則に「およそ行脚(あんぎゃ)の人は須(すべか)らく啐啄同時の眼を具し、啐啄同時の用あって、まさに衲僧(のうそう)と称すべし」と書かれているとか。衲僧とは真の禅僧という意味だそうです。
ただ、こうした行為や相互作用に着目するのは、もちろん禅仏教の専売特許ではないでしょう。西洋にも当然ながら類似の考え方や概念がありそうです。タクト(tact)という言葉はそのヒントになるでしょう。タクトとは、「他者とのよい関係を保つために何をなし、あるいは何を言うべきかについての鋭い感覚」と意味づけられています。教育においてタクトの概念を最初に持ちだしたのは、ドイツの哲学者・心理学者・教育学者ヨハン・F・ヘルバルトということになっています。彼は1802年に「ある教師が良い教師であるか、悪い教師であるかは、その人物がタクトの感覚を持っているかどうか」であると述べています。その後も、心理学者のウィリアム・ジェームズのように、タクトに触れた学者が続きます。ジェームズは、教師たる者は「タクトと独創性」を持たなくてはならず、これらが「教師のアルファーでありオメガであるが、心理学が決して教えることのできないものである」と述べています。これらの西洋の先達の言葉の意味するところは、上記の啐啄同時の感覚と大同小異と言って差し支えないと私は考えています。
授業の本筋から少々外れたものである場合も含めて、教師が発した一言、また教師の一つの行為がその後の長い間、聴いたり見たりした人の記憶に残り、その人の生き方やモノの考え方に影響を与えることもあるでしょう。ちなみに、冒頭に記述した卒業生に関して、数年前の同窓会名簿を見つけて開いたところ、彼らのうち8人が教職に就いていました。ひょっとすると、自らの教え子に「啐啄同時」の話をしている人がいるかも知れません。あるいは日々の実践の中で、どこかにその意識を抱いている場合もあるでしょう。
ところで、本学で私も担当者の一人になっている授業「教職実践演習」があります。教職課程に登録している学生が、教育実習を終え、教員免許取得前の最終段階に受講する科目です。今年度の履修者35人のうち、嬉しいことに、出身地の教員採用試験に合格した人など7人が春から教壇に立つことになっており、それ以外にも臨時採用や非常勤で教職に就く予定者が数名います。そして、文字どおりの仕上げとして、先月1月には授業の中で受講生が模擬授業を学友の前で行って来ました。考えて見ると、受験予備校の授業のように受講生みんながほぼ同じ方向を向いていて、いわば卵の殻を内側からコツコツとつつく状況は多くの学校・大学では考えられません。「啐」という前提が無い中で「啄」に当たる言動を行ったり、心に残る授業を行ったりするのは容易ではありません。ある日の模擬授業を見ながら、(この学年の学生には以前の年度の授業中に話す機会はありませんでしたが)「啐啄同時」を考えました。授業を観察した後、感想を求められた私が発した一言は、「授業というのは難しいものですね」。何十年も教壇に立っても思うことです。また、普段の授業中はもとより、教え子が何か問題を起こしたような場合もまた然りです。さらに、教師に限らず親として人として「啐」を感じ取る研ぎ澄まされた感覚を持ち、あるいは自然に身に備わったりしていて、「啐啄同時」の境地に達するのは、やはり「言うは易く行うは難し」です。