【☆学長短信☆】No.23 「ジョン・デューイの日中比較から考える」

以前の短信でアクティブ・ラーニングを取り上げた際、この学習法の根本精神に連なる経験主義哲学の旗手、ジョン・デューイに触れました。彼の主要な著作はほぼ全てが日本語に翻訳されています。ところが、珍しく日本語訳がない書物があります。Letters from China and Japanという1920年出版の書物です。この本は教育書や哲学書ではなく、彼が19191920年に妻とともに経験した東亜への旅の間に、家で待つ子ども達の許に書き送った手紙を娘が編集したものです。日本からの手紙27通のうち10通については、川西進・瀧田佳子訳『アメリカ人の日本論』(研究社、1975年刊)所載の瀧田氏による部分訳があります。実は私は十数年も前に全訳を考え、メモを取ったりしていましたが、余りにカジュアルで却って難解な多くの表現に出くわし、手に負えないと恐れをなしたものでした。しかし、中国語の全訳が出版され(劉幸訳『杜威家書―1919年見中国與日本』北京師範大学出版社、2016年)、同訳書を少し前に訳者から贈られていたことと、一月の短信「除日に講起す」を書いた手前もあり、原文と上記漢訳書とを一句ずつ照らしながら、正月休みに読み直しました。 

当時、デューイは渋沢栄一や新渡戸稲造らの斡旋もあって日本を訪れ、全部で79日(もともと34か月の予定)滞在し、東京帝大での8回の講演など学術交流を行った後、帰国前に数週間訪れるつもりで中国へ赴きます。デューイ夫妻は異国情緒溢れる日本において、東京だけでなく鎌倉、京都など各地でその美しい景色や美術・工芸品を愛で、中村鴈治郎の芝居や宮城道雄の琴の演奏を楽しみ、東京高師の嘉納治五郎校長の講道館柔道に目を奪われます。また、珍しい和食に舌鼓を打ち、そして何よりも下へも置かぬ日本人の手厚いもてなしや、過剰なまでのお辞儀に見られる礼儀正しさに惹かれたことが窺え、日本滞在中に送った手紙では日本をきわめて高く評価しています。 

他方、日本旅行の帰途にちょっと足を伸ばしたはずの中国でしたが、やがてデューイは勤務先のコロンビア大学に1年間の休暇を申請し、実際には22か月にも及ぶ長期滞在になったのです。上海で出迎え、滞在中に夫妻を接待したのは、ほぼ全員がアメリカ留学帰国者、とくにコロンビア大学でデューイに師事した胡適、蒋夢麟、陶行知らでした。デューイは滞在中に中国の11省を巡り、約200回の講演を行いました。いったい中国の何が彼をそこまで魅了したのか、日中両国に関する彼の思いを上記の書から少し拾ってみました。 

中国へ向かう船上で、「日本人は他人が自分のことをどう考えるかをえらく気にするが、中国人はまったく気にしない」と誰かに聞いたとか。上海到着から3日目の手紙で、「いささか危険を伴うとしても、比較することは、私たちが好きな室内の気晴らし(sport)です」(原書156頁、以下同様に数字は原書の該当頁)と前置きした上で早くも日中比較を記しています。曰く、「中国人は“粗野”と言わないまでも騒々しく、お気楽というか、汚いというか、総じて人間味に溢れています。彼らは日本人よりずっと大きく、しかもしばしばどこから見てもハンサムです。」(156頁)「遠ざかるにつれて、日本の印象が視野から徐々に沈んで行っています。日本人を素晴らしいと思わせた正にその性質がイラっと感じられることもままあります。」(157頁) 

当然ながら中国でもフカヒレやツバメの巣をはじめ文字通り山海の珍味や数々の料理によるもてなしを受けた夫妻でした。それほど豪華な料理を振る舞う場合、「もし日本であれば見せ方に工夫を凝らすところでしょうが、中国ではそれが見られない」と記しています。また、両国ともに女性が従属的地位に置かれていることに触れた際、北京の政治的抗議集会において12人からなる委員会のうち4人が女性であったことを挙げ、「日本では政治が議論されるいかなる集会にも女性は参加を禁じられ、法律でも厳に強要されています。アメリカには日本人よりはるかに多くの中国人女性が留学しているけれど、それはおそらくここ中国には女子のための高等教育機関が不足しているという理由からだけでなく、教育を受けても結婚を諦める必要がないからでしょう。・・・確かに、教育を受けた中国の人々は女性の問題に関して日本よりはるかに進歩的です」(163164頁)と見ています。 

中国を訪れた直後、デューイが目の当たりにしたのが五・四運動、つまり日本による「対華21カ条要求」に対する不満に由来する抗日、反帝国主義を掲げる学生運動ないし大衆運動でした。58日の夜、時の内閣によって辞任を迫られ、実際のところ、暗殺される可能性さえあった北京大学の蔡元培学長は、北京城内に入った兵隊(「銃を持った盗賊」と括弧付きで追記しています)に大学が包囲された事態に、自分自身のためというより大学を救うため密かに脱出しますが、デューイは蔡元培について「この学長は私が思っていたよりはるかにリベラルな知識人リーダーのようで、政府は彼のことを本気で恐れるようになりました。わずか2年の在任だったけれど、それまで政治的なデモを行うことなどなかった学生が新たな運動の先頭に立っています。もちろん政府は保守反動的になり、学生は退学し、全ての誠実な教員は辞職するでしょう。たぶん学生は中国全土でストライキを行うようになるでしょう。先のことは誰も予測できないけれど」(164165頁)と観察しています。 

61日の北京からの手紙の書き出しでは、「中国での暮らしはエキサイティングだなんてもんじゃありません。私たちは一つの国家の誕生を目撃しているんでしょう。そして、誕生は常に難しいものです」(209頁)と綴っています。不正を糾す演説をし、逮捕覚悟で拘留中に使う歯ブラシやタオルをポケットに入れてデモに出かける多くの学生(211頁)や、腐敗した高位高官に堂々と対峙する若者の姿に、デューイは社会が変わる息吹を見いだしたようです。 

84日、天津での高校長の会議に出席した際、夏に政治運動に身を投じ、政府をも動かせることを知った高校生が休み明けに学校に戻った後の混乱を案じる多数の保守的校長に混じって、生徒達の経験に教育的価値を見いだし、彼らが新たな社会観を身に付けたことを認めて、教育の方法も変わる必要があると考える人々がいることに気づいています(306頁)。コロンビア大学などで大学教育の在り方を学び、私立南開大学を創った張伯苓もその一人であり、デューイがそれまで中国人に抱いていたイメージ、つまり旧習のみに囚われた頑迷固陋な人たちではないと感じています。「中国人が考えを変える時、人々は日本人よりもっと徹底的に、あらゆる面で変わるだろう」(309頁)と予測しています。 

ところで、日本からの手紙においては東京帝大をはじめとする大学の記述はほとんどなく、わずかに新渡戸稲造の東京女子大や成瀬仁蔵が創った日本女子大、早稲田大学に短く言及されているだけに留まります。当時の日本ではドイツ哲学の影響が絶大であり、アメリカ留学帰国者もいたものの、デューイ訪日の影響は限定的と見るべきでしょう。他方、中国では、彼に心酔するアメリカ留学帰国者が教育界で確固たる地位を占めていて接待しました。手紙の中でも随所で北京大学、清華大学、北京高等師範学校、後に天津南開大学となる学校のことや、南京で目にした貢院、つまり科挙の試験場の仕組みの詳細まで記述しています。とくに留学との関係に触れた箇所では、「日本留学から帰って来た学生は日本のことを嫌っていますが、アメリカ留学帰国者とは仲たがいしており、彼らの幾つかに分かれた組織は一つになることができません。帰国留学生の多くは仕事がありません。これは明らかに彼らが実業の世界に入ろうとしない、あるいはどこでも下っ端仕事からは始めようとしないからです」(190頁)と見ています。留学経験者と未経験者とを比較し、後者は「文芸的、学究的精神の高さにおいて実際のところ何かしら頼りなく、留学した者は、たとえ日本留学であっても、その点で優れています」(194頁。下線は引用者)。 

彼はおそらく教育を通じて人間が一旦覚醒すると社会の在り方をも変革する“うねりとなることを感じ、その目撃者たらんと考え、それが長期にわたる中国滞在に繋がったように思われます。デューイの好みという点で言えば、残念ながら、中国に軍配が上がるようです。翻って、今の我々自身の問題として考えて見ると、外国人留学生に限りません、如何にして学生に意識レベルでの変革を起こさせるような深遠な影響を与えられるか、いつまでも恩師と慕われるような関係を取り結べるかが問われているように思うのです。 

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