【人間文化学科】地域文化研修2019 井伏文学「鞆ノ津茶会記」フィールドワーク
フィールドワークの魅力と言えば、自分の足で歩き、自分の目で見て初めて実感できることが多いことではないでしょうか。
学長室ブログメンバー、人間文化学科の清水です。こんにちは。今回は、毎年人気の地域文化研修の模様をお伝えします。以下、青木教授からの報告です。
人間文化学科では、フィールドワークによって地域文化についての知見を深めています。前期は青木ゼミの井伏鱒二文学に描かれた地域文化のフィールドワークに、学科の1~4年生の歴女・歴男有志が参加して行います。また、今年は経済学部の留学生が1名参加しました。ここ数年は、井伏の小説「鞆ノ津茶会記」に描かれた地域文化を備陽史探訪の会会長である田口義之氏を講師に招いて実地踏査し、中世の福山市を探求してきました。そこに描かれているのは備後の海と山の生活の営みであり、原・福山の姿です。一昨年度までは瀬戸内海の水軍の歴史(海の文化)について、昨年度からは中国地方内陸部の金属文化の歴史(山の文化)について研究しています。
このフィールドワークは歩きながら過去の痕跡を発見し、そこから歴史を復元するイメージトレーニングであり、「ぶらタモリ」ならぬ「ぶらイブセ」とも言える井伏文学を通して行う頭と体の体操です。以下、そのトレーニングの成果の一端を紹介しましょう。
今回のフィールドワークでは、「鞆ノ津茶会記」の世界観を全体的に把握することを目指しました。そこには3つのポイントがあります。第1は広島県立歴史博物館での見学で、主任学芸員・尾崎光伸氏の的確な解説によって作品世界の空間的・時間的背景を把握することができました。そこには、中世の草戸千軒遺跡が眠る芦田川の沿岸を中心に、その水運によって内陸部の産物が鞆港を経て瀬戸内海の上流下流に運ばれていく過程を見ることができました。そこでは、内陸部から運ばれてきた金属の材料が草戸千軒町の鍛冶屋で加工されて大陸に運ばれていき、大陸からは青磁や白磁などの優れた陶磁器が運ばれてくるといった海外との交易の様子が発掘品から具体的に認識できました。昨年度の対象地である大田庄が、内陸部からの金属材料を鋳造技術によって加工するとともに、内陸部からの産物の集積地であった点が草戸千軒と共通しており、そのような産物を尾道港へと送る中継地としての性格を持っていたことと重なりました。また、同じような働きをする人的・物的交流の中継地としての三原城との繋がりも想起されました。その後、神島橋西詰から芦田川の土手を下り、草戸千軒の遺蹟地を横に見ながら草戸千軒町がその門前町であったという明王院も見学しました。日本の三名塔と歌われる優雅な五重塔を鑑賞、境内には沙羅双樹の白い花が閑かにその満開を誇っていました。
第2は瀬戸内海と関西及び大陸との中継点である鞆の浦の性格を知ることです。小説では、冒頭で鞆城内の足利義昭(室町幕府最後の将軍で、織田信長に都を追放され、足利氏ゆかりの地である鞆に鞆幕府を置いた)の茶室で、地域の武将たちが茶会を開くことになっています。鞆城の跡地には、今、鞆歴史民俗資料館が建っています。その丘から見ると、鞆港が一望に見渡せます。石垣部分は鞆城時代のものとのことで、いろいろな記号の刻印のある石を見学しました。鞆城は毛利氏が築城し、城内には義昭の居館があったとのことで、その一郭に「神明亭」という義昭の茶室があったとされ、現在はその枯山水の庭(私有地)のみが遺っているとのことです。
その後は、福島正則が鞆城を築城しましたが、関ヶ原の合戦以後、一国一城令の発令前に取り壊されたとのことです。その後、福禅寺対潮楼、毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊が住職を務めた安国寺の遺蹟(恵瓊築造の枯山水の庭、庫裡の礎石、釈迦堂)を見学しました。恵瓊も福島正則もそれぞれ家康によって処刑、また蟄居の身となりました。いずれも古来、中央の権力者に注目されてきた備後国鞆の複雑な歴史の一端を伺い知る遺蹟でした。
第3は備後国がそのように注目されてきた大きな理由の一つであったと思われる鉱山跡の見学です。小説には、藤尾、父尾金山(福山市新市町)が出てきますが、今回は大同年間(平安時代)からの銅山と伝わる沼隈半島の勝負銅山の間歩を見学しました。バスで芦田川の西岸を下り、2号線バイパスの赤坂出口の所から徒歩20分余りで、その銅山の坑道入口付近に到着します。バス移動中に、沼隈半島の西側の山一帯が古来「たから山」と呼ばれる鉱物資源の宝庫で、「福山」という地名もそれが起源との説もあるという話を田口先生から聞きました。また、沼隈半島では貝塚が多く発見されており、そこからサヌカイト(讃岐岩、香川県産の石)の石器も発見されているという話も聞きました。古い歴史のある場所ということです。移動中は、あいにくのにわか雨で車窓の風景も見えないくらいになりましたが、10分あまりバスで待機すると雨は上がりました。勝負銅山跡にたどり着くまでの山路の、そこここに昔の集落の痕跡が見られました。辻堂跡の立て札があり、気味悪く濁ったため池があり、今はうち捨てられた荒神を祀る小さな社がありました。その途中の山肌に坑道の入口が真っ黒に口を開けています。ここにも「勝負銅山」解説の立て札が立てられています。その数メートル先に、ぼた山跡が未だに小山の形を留めており、田口先生の説明通りに緑青のついた銅の鉱石が転がっていました。銅には鉱毒があるためか、その小山にだけ草が生えていないとのお話です。この鉱山は昭和28年まで創業を続けていたとのことですが、関連施設は全く遺っていません。すべては強者どもが夢の跡です。雨上がりの大地に羊歯が異様に青くしげり、あちこちの枝や投げ出された土管にひるや蝸牛が生き生きとぬめっているのが印象的でした。
バスまでの帰路、向かい側にある小山が新庄太郎実秀という長者の城があったところとのこと(長者が原)で、種々の伝説があるそうです。ただし、この人物は実在の人物で室町時代に尾道西国寺の寄付帳に名前があり、多額の寄付をする有力者であり、その財力の根拠がこれらの鉱山にあったのではないかとの推測を田口先生はされています。つまり、備後が中央の権力者から注目されたのは、この地の宝と芦田川と山陽道の水陸運の流通の力にあったということができるようです。さて、最後にもう一つのポイントです。この小説は「茶会記」であるので、お茶の道具や茶室のあり方を知っていることが必要ですが、小説の読解に際してそれがいつもイメージできない学生が多いので、一度茶室を見学したいと思っていました。
今回は、枝広邸(ぬまくま文化館)の茶室を見学しました。枝広邸は、幕末から明治にかけて三代続く医者の自邸で福山市に寄贈されて修復され、現在は貸し室として、お茶会、絵画展、結婚式など種々のイベントに使用されているそうです。茶室のしつらい、水屋、茶道具、庭などを見学し、御抹茶をいただきました。この庭園が究めて凝った作りで、邸前を流れる川の水を引き入れた池があって海水の満ち引きにつれて水面が上下して景色が変わるとともに、その庭の一角に隧道が作られており、この暗い隧道を抜けると池の対岸にある東屋風の小さい茶室(二畳)に通じることになっています。邸の前の川には雁木の設備もあり、昔は船が着けられたのだろうと思われます。大変な豪邸であり、その財力も推測されました。
今回は大変強行軍で、少し欲張り過ぎたかも知れませんが、これまでできなかった小説全体の世界観にかなり迫れたと思います。井伏の持っていた在所の地理観が見えてきたように思います。それにしても、福山の歴史遺産は、見れども尽きません。まだまだこれからという気がしています。
学長から一言:いやー、ものすごく内容の濃い研修ですね-!!!そして、この福山の地が、“福”の山であったこと、この短いブログからもしっかり伝わってきましたッ!学生の皆さん、こんな魅力的な地域文化研修を受けられて、良かったですね~~。