【☆学長短信☆】No.45「師走の雑感 ~リーダー私論~」
師走という言葉の語源については、僧侶がお経をあげるために東へ西へと駆け回ることを意味する「師馳す(しはす)」が転じたとか、年が終わるという意味の「年果つ(としはつ)」や、四季が果てることを表す「四極(しはつ)」から転じたなど諸説あるようです。私は、幼い頃にどこかで耳にした「どっしりと構えているべき師と呼ばれるような人でさえ、年内に為し終えるべき仕事のために忙しく走り回らないといけないほどの月」という、最初の解釈に近い内容を覚え込んでいました。そして、我が身を振り返れば、年がら年中せわしなく小走りに動いていることが少なくなく、「年中師走か?」と反省することしきりで過ごして来たように思います。
さて、そんな師走ですが、この月で私が忘れられない日として、太平洋戦争開戦の8日とクリスマスイブの24日の他に、12月14日があります。この日が誕生日の母親がまだ健在だった頃、その日には少なくとも電話を掛けて声を聞くことにしていたからです。それをつい忘れそうになっていても、14日になると必ずと言ってよいほど「義士の討ち入り」にまつわる内容が放送され、うっかり者に気づかせてくれたものでした。最近は「忠臣蔵」などという言葉も多くの日本人にとって忘却の彼方に霞んでしまっているかも知れません。江戸中期・元禄の時代に播州赤穂藩の藩主であった浅野内匠頭が、江戸城内の松の廊下で吉良上野介に対して刃傷沙汰を起こし、この事件への幕府の裁定を不服として、やがて赤穂の浪士47人が御法度に反して12月14日に吉良邸に討ち入り、主君の仇討ちをした話です。現在では史実がさまざまに解明されて、歌舞伎や文楽、映画・演劇で興味深く取り上げられて来たのとは異なるところもあるようです。しかし、主君の無念を見事に晴らした忠義の士たちのイメージを幼い頃から刷り込まれている私などは、この話はいまだに胸躍るものがあります。赤穂の義士ゆかりの場所が東京の港区高輪にある泉岳寺。私はかつて東京出張の折には、夜遅くても羽田空港から電車の乗り換え無しで着けて便利で、翌朝早くからの霞ヶ関などへの移動にも好都合だったことから泉岳寺駅近くのホテルを定宿にしていました。たまには少し早起きをして義士の墓参りをするのも、この選択の理由でした。
仇討ちの決意を見破られまいと、隠棲先の京都山科の茶屋での遊興三昧の虚け者を演じた大石内蔵助、討ち入り前夜に兄の家を訪ね、不在の兄の羽織の前で持参した酒を酌み交わそうとした「徳利の別れ」の赤垣源蔵、浪曲歌謡「俵星玄蕃」に登場する杉野十平次など、映画のシーンとともに名前がすぐに頭に浮かぶ人たちが少なくありません。前に写真に撮っておいた泉岳寺境内の案内図に見られるように、切腹した義士たちが主君とともに揃って祀られています。
原因は何であれ、個人的な怒りから殿中で禁じられていた刃傷沙汰を起こした浅野内匠頭はあまりに短慮だったと言われても仕方ないでしょう。そのことによって、自らの後に控える多くの家臣やその家族が路頭に迷うことに思いが至らなかったのですから、リーダーとしては失格であったかも知れません。他方、討ち入りに加わった人々の背後にも、さまざまな経緯や理由から不参加の判断を下した多くの藩士がいました。目的と手段の正当性についてはさらに議論を要しますが、少なくとも討ち入り成就という目的達成の点からのみ見れば、大石を筆頭に義士たちの組織行動は見上げたものです。第二次大戦後の占領下には、GHQが日本国内の報復運動の高まりを恐れ、仇討ちを扱ったこの題材の演劇や出版を短期間ながら一切禁止したことも知られています。現代の政界をはじめ各界のさまざまな人間模様をも連想させる忠臣蔵の登場人物の行動や人間関係を思い浮かべながら、朝の散策をしたものでした。
規模の大小にかかわらず組織の長というものは、直面する特定の問題の発生に際して、その都度、できれば瞬時に的確な判断を下すこと、全員一致で賛同を得られる決定でなくても、少なくとも当事者のマジョリティが同意する決定を下せることが求められていると思います。しかし、より大切なのは、日頃から存在自体が関係者に安心感を与えられること、つまり、あの人について行っていれば、まあ大丈夫だろうと思われる雰囲気や心地よさを醸し出しているか否かではないかと考えています。師走を迎えて心に浮かんだ赤穂の義士の話から、とんだリーダー私論になってしまいました。自らのことも含めて、本学各部署のリーダーが部内を安心させることができているかどうか、今一度考え直してみるのも年末に一興かも知れません。